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【ガソリンを浴びせられ発煙筒を投げられる】

事件が起きたのは平成八年七月二十三日の午後三時過ぎでした。福岡市博多区にあった通信販売会社「セザール」本社に一人の男が「クーラーの点検に来ました」とポリバケツと雑巾を持って訪ねて来ました。男は三階の社長室に上がってくると、いきなりポリバケツに入れていたガソリンを床に撒き、一人で部屋にいた私にガソリンを浴びせました。そして、階段を駆け下りて逃げようとする私に発煙筒を投げつけたのです。ポーンと音をたててガソリンに引火し、たちまち火だるまになりました。女性社員が消火器で消し止めてくれたものの、救急車で病院に運ばれたときは私の顔は焼けただれ、とくに火を払おうとした右手などは親指と人さし指は熱で溶けてしまっていました。やけどは全身の六十五佑傍擇咫△劼般楔た医師に「こんなにひどくては、とても助からない」と見放される状態でした。ICU(集中治療室)に運び込まれた私は、急を聞いて駆けつけた家内や兄に「おれはもうダメだ。まだ子供が小さいので、よろしく頼む」と牋筝性瓩靴動媼韻鮗困い泙靴拭その時、四十八歳。福岡を中心にいくつもの事業を手がけていた私は得意の絶頂にありました。テレビショッピングの「セザール」やモツ鍋店、パチンコ店などのほか、海外でもシンガポールや香港にも貿易や飲食事業を展開し、私が統括している飲食娯楽の「キャセイ」グループは従業員二百三十人、売り上げ七十億円と、世の不況などどこ吹く風と急成長していました。

 


【グループ規模を縮小社員を十分の一に】

あとで家内から聞いたのですが、ICUに運び込まれた最初の三日間ぐらいは体が風船のように膨らんで三倍ぐらいになっていたそうです。危篤状態を五回も繰り返しながら、私が意識を取り戻したのは二週間後でした。それだけでも奇跡ですが、まだまだ安心できる状態ではありません。全身が焼けただれたため感染症を引き起こし、さらには熱気を吸い込んだために肺炎を起こして、血圧も二〇ぐらいにまで下がってしまったりして危険な状態が続きます。私が三途の川を往き来している最中、事業のほうも激震に見舞われていました。取引銀行は融資を打ち切り、返済を迫ってきます。取引きの継続を断ってきた業者も少なくありません。過去の一度倒産を経験している私は、激痛をこらえながら、会社をなんとしても存続させるため、グループ企業の縮小・合理化を指示しました。まず、パチンコ店を売却、セザールも営業権を譲渡して通販事業から撤退し、海外の店やモツ鍋店は売却したり、賃貸したりして、預金も解約するなどして、すべて返済にあてました。幸い、事業は現金商売がほとんどでしたから手形の振り出しも受け取りもほとんどなく、遊戯機器の支払い分として二か月期限の二百万ずつ六枚、計一千二百万の手形があるだけでした。粗利益率の高い会社だけを残したこの合理化で、グループ企業は無借金状態になりました。しかし、なりふり構わぬ合理化のツケは大きく、社員を十分の一に減らしたため有能な人材が去っていき、メーンバンクも支援も打ち切られ、将来に向けて育ててきた事業も放棄しなければなりませんでした。しかも、なぜこんな目に遭わなければならないのか見当もつかないのに、犯人が捕まらないため放火、殺人未遂事件によるダーティーなイメージが払拭できません。平成八年の売り上げは三十三億と半減し、セザール清算の損失補てんもあって経常利益はマイナス四千八百万と、創業以来の赤字になりました。

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【首を吊ろうにもヒモが結べない】

「もう、死んでしまいたい。」ICUのベッドで意識を取り戻した私は、何度も自殺を考えました。事業が追いつめられただけでなく、やけどの激痛のあまり、精神状態は普通ではありませんでした。毎日、医師二人、看護婦五人がかりで全身を一時間半以上もかけて消毒してくださるのですが、イソジンという消毒液を噴霧器で全身に振りかけられると傷に猛烈にしみるのです。あまりの痛さに麻酔薬としてモルヒネを注射してもらうののですが、三十分ほどしか効きません。しかもICUには四六時中重症の患者が運び込まれてきて、付き添う家族の方たちが「頑張って!」などと絶叫されますから、よく眠れない。傷の痛さ、睡眠不足でノイローゼになってしまいました。だか、首を吊ろうにも、私は右手の親指などがなくなっていますから、ヒモさえ結ぶことができません。人知れず悔し涙を流しながら、瞬間的に目に焼きつけた犯人にリベンジを誓ったこともありました。そんな私を励ましてくれたのは、やはり肉親でした。妻は中村久子という両手両足を切断した身を見せ物興行に晒しながら、誇りをもって生き抜いた人の伝記やプラス思考の本を読んでくれました。そして、母の一言が、私に生きる勇気を与えてくれたのです。七十四歳になる母親はこう言いました。「いいか、決して死にたいなどと思うなよ。おまえがどんな体、どんな姿になってもいい。やけどが治って生き返ってくれたら、自分はこの年齢でもう一人子供を産んだと思うからな」その言葉を聞いて、ぼろぼろ涙がこぼれました。親より早死にするより親不孝はないと思い、生きる勇気を得たのです。息子二人も同じ病院に入院しました。移植手術で息子たちのお尻の皮膚をもらったのです。お医者さん、看護婦さんも懸命でした。主治医の先生は回復のめどがつくまでの二か月半、毎日欠かさず治療を担当してくださいました。そのように、周りの人に支えられて生きる気力を取り戻した私は、痛み止めの注射を断りました。モルヒネは麻薬ですから、永続すれば体にいいわけがありません。「このままだと麻薬で頭がおかしくなります。どんな痛さにも耐えますからモルヒネはやめてください。中途半端な形で社会復帰しても、会社の経営は務まりません」と主治医に申し出ました。集中治療室から直接退院したのは四か月半後の平成八年の暮れでした。普通ですとICUから一般病棟に移って治療を続けるのですが、事業のこともあり自宅療養にしました。

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【二十六歳で三千五百万の借金】
その事業観とも関係しますので、私の生い立ちなどに触れさせていただきます。私は北九州市小倉北区で生まれました。両親は廃品回収業で生活は貧しく、家族十一人が八畳一間で暮らしていました。六人きょうだいの三男の私は、小学校のころはぼた山からくずの石炭を拾って銭湯に売りに行き、小遣いにしたものです。差別や屈辱的ないじめも体験しました。親の手伝いでリヤカーを押していると、同じ年ごろの子供たちから「やあい、ぼろ買い」と野球のボールやドッジボールを投げつけられるのです。そのような経験があって、一日も早く平等に扱われたいとの思いから帰化を考え、そのために必要なお金儲けにまず気持ちが向かいました。高校を卒業するとダンプカーの運転手になり、二十歳の時には愛知県豊田市で土木作業員の牋鏡瓩鮖呂瓩泙靴拭E賁捷眤道路が開通する前年の昭和四十三年のことで、インターチェンジなどの作業者として五人ほど北九州市から呼び寄せたのです。手数料として一日一人当たり六百円をもらい、自分も働きましたから五千円以上の日銭が入りました。高卒の初任給が一万二千円ぐらいだったので割のいい仕事でしたが、結局作業員に逃げられ、今度は親に無理を言って四鼎離瀬鵐廛ーを月賦で一台購入して、建設工事の残土を捨てる仕事を北九州で始めたのです。昔から苦労をしていましたから、どのようにすれば金儲けができるかというカンは人一倍だったと思います。残土の捨て場所は決められていますが、遠いところに捨てに行くのは効率が良くありません。工事現場の近くで、農地を宅地にしたい農家の人を捜し出し、農地を残土で埋めたててあげたのです。ダンプカーを現場に持ち込んでの報酬は一日八千円ぐらいでしたが、私は二万円は稼ぎました。四十六年には大島重機商会という有限会社を設立して仕事を拡大し、四十八年ごろには月商が一千二百万ぐらいになりました。十点僂澆離瀬鵐廛ーや大型ブルドーザーなどが全部で十二台ほどあったでしょう。だが、いいことばかり続きません。四十八年十月に勃発したオイルショックの影響で、北九州の中堅建設会社から受け取った手形が、暮れの十二月二十五日に不渡りになりました。そのうえ、従業員に支払う給料を七十万円ほどようやく工面して会社に戻る途中の二十九日の夜、道路に飛び出してきた四歳の子供を車ではねてしまったのです。子供は骨折だけで命の別状なかったものの、見舞金やなにやかにやで正月はポケットに一円もなくなりました。しかも年が明けた一月二十五日には、別の会社からもらった一千五百万円の手形まで不渡りになってしまったのです。もはや、お手上げ、連鎖倒産です。二十六歳の私は三千五百万円の借財を抱えてしまいました。いまなら一億円をゆうに超す金額です。

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【事業拡大で得意だったやけどまでの十年間】
地元にいづらくなって博多に行き、借金を返すために土木作業員や重機の運転手をしたものの、収入は知れたものです。親には「人さまには迷惑をかけるな」と厳しく躾られてきたものですから、何か効率のいい仕事はないかと考えて始めたのがレンタルビデオの店でした。昭和五十一年のことですから福岡で一番早かったでしょう。といっても、映画会社がいまのようにビデオのレンタルを許可してくれませんから牾ぢ曳猫瓩任后ビニ本ショップなども手がけましたから胸を張れませんが、手形は懲り懲りだったので日銭の入る現金商売にしたのです。その後さらに手を広げ、調査会社や結婚相談所をつくりました。事業は順調に推移し、ビデオレンタル店の立ち退き料二千五百万円をもとに博多で新規に色々な事業を開業したのは十四年前の六十一年のことでした。中には私が始めたおそらく日本で初めての事業もあり、大好評で、投資した二千五百万円は四か月で回収し、借金も直ぐに返せました。そして六十三年、飲食娯楽業の管理会社「キャセイ産業」を設立、モツ鍋屋やカラオケ店、通販会社やパチンコ店など十二業種ほどの事業を展開していくことになります。唯一の失敗といえば、現在は「ソフトバンク」社長の孫正義さんと提携して平成二年に始めたゲームソフトの開発会社がうまくいかず、一億二千万円の赤字を出して閉鎖したぐらい。これもその前の昭和六十三年、本社ビルの建設用地として福岡市内で購入した土地を半年後に転売して利益を得たので、大きなダメージにはなりませんでした。そのように、私の得意絶頂期は、あの暴漢に襲われるまで約十年間続きました。

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【やけどを負った日は命日、そして誕生日】
さて、病院を退院して自宅療養になっても、やけどが全快したわけではありません。平成九年だけでも二月、五月、九月と移植手術を受けていて、この手術はこれまで十五回に及んでいます。会社に復帰できたのはその年の十月からで、実に一年三か月ぶりでした。だが、出社しても私の居場所がないことにすぐ気づきました。私だけが浮いた存在になってしまっていたのです。これでは経営者として、トップとしての役割が果たせません。同時に、やけどをする前の絶頂期、自分はお山の大将で、なんと傲慢だったかということにも気づかされました。その気づきは、死に直面し、辛いこと、苦しいことを乗り越えたたまものだったと思います。私は自分をこんな目に遭わせた犯人が憎らしくて仕方なかったし、犯人を見つけて復讐してやろうと思ったこともありました。しかし、会社に復帰したあと、ある人から「人生において、その人の性格はその人にふさわしい事件を引き起こす」と言われました。「事件はだれのせいでもない、自分のせいだ」と気づかされたのです。ですから、いまは恨みは消えました。全身やけどというのは私にとって大変な苦難でした。しかし、その苦難を通して私にまた新しい世界が見えてきたことは事実です。その意味では、まさに苦難が新しい幸福の門を開いてくれたと思います。「おまえが良くなったら、もう一人子供を産んだと思うからな」と母が言ってくれたように、大やけどをした日に、私は生まれ変わったのです。だから平成八年七月二十三日は命日であり誕生日なのです。そして新しく誕生したのであれば人生観や仕事観、人間観を変えなければ、意味がありません。勉強するしかない。そう思い、以来自己啓発セミナーなどにも積極的に参加して学ばせていただいています。去年の二月、私は東京女子医大病院で足の親指を右手に移植してもらいました。なくした右手の親指をつくってもらったのです。依然右手の人さし指はなく、中指から小指までの三本の指はくっついたままで開きませんが、おかげさまで筆や鉛筆も握れ、字も書けるようになりました。嬉しいことに、人と出会ったときに握手の素晴らしさを味わわせていただいています。この手術のために入院中、やはり大やけどで入院していた人気カーレーサーの太田哲也さんと知り合いました。平成十年五月三日、富士スピードウェイでの「全日本GT選手権」第二戦決勝レースでレーシングカーが、衝突炎上し、太田さんは全身の四十佑鬚笋韻匹気譴泙靴拭I,覆匹眷でなくなってしまうひどい事故で、私がお会いした初めのころの太田さんは精神状態もかなり荒んでいました。何回か狎菁抬瓩箸靴董⇔紊泙靴討い襪Δ繊太田さんは「僕も一年を過ぎると大島さんのようになれるかなあ」と希望をもたれたようです。翌年の五月三日、私は病院にいる太田さんに電話しました。「一歳の狠太呼瓩めでとう。事故から一年、よく頑張りましたね」一歳という意味がわかって、太田さんは電話の向こうで泣いていました。彼はいま、雑誌に連載記事を執筆するなど、復帰に懸命です。規模を縮小した事業のほうはその後順調に推移し、飲食、娯楽、サービス業を展開、社員三十八人で頑張っています。目下、計画中なのは阿蘇温泉「やまびこの湯」です。阿蘇の猿回し劇場の前に二千坪の土地を確保し、平成十一年の八月から温泉のボーリングを開始し、現在、地価1010メートルの深さで64度の温泉を掘り当てる事に成功しました、温泉がわき出たら、やけどの後遺症や皮膚病で苦しむ人たち、車イスの人たちも気兼ねせずに利用していただ気、心と体を癒せるバリヤフリーの温泉施設を2003年度オープンを目指して計画中です。良い人間関係を築くことがすべての幸せの源である。そう信じて、良い人間関係を築き、人のお役に立てる人間になることを生涯の使命とし、いま人の心や体の痛みを癒すことを自分の最大の喜びとしています。また、ケガのあと、自分の痛みを癒すところから、いつの間にか人の痛みを体に触れずに治すことができるようになりました。俗に言う気功術、波動エネルギーというものかもしれません。第二の人生は、経営者として、社会や人のお役に立てる人材を育てること。社員さんに裕福な生活を保障するためには適正に利益を確保し、安定した会社の存続を目指して経営者として自己の修身をやりつづけています。

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